大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島高等裁判所 昭和61年(ラ)61号 決定 1987年1月19日

抗告人 濱田千惠

訴訟代理人 井上正信

主文

原審判を取り消す。

抗告人の氏「濱田」を「沖野」に変更することを許可する。

理由

一  抗告の趣旨及び理由

別紙のとおり

二  当裁判所の判断

(一)  本件の事実関係は、原審判理由2の原審判二枚目裏一〇行目から同三枚目裏一三行目までであるから、これを引用する。

(二)  ところで、氏を変更するには、戸籍法一〇七条一項にいう「やむを得ない事由」があることを要する。右「やむを得ない事由」とは、人の氏姓についての通称に対する愛着や個人的に秘匿を欲するというような主観的事情があるだけでは足りず、呼称秩序の安定性の要請という社会秩序的観点からの客観的な合理的必要性がある事由を意味するが、この要件は、名の変更の場合(同法一〇七条の二の「正当な事由」)よりも一層厳しい要件である。しかし、離婚に際し、婚姻中の氏(以下、婚氏ともいう)を届けたときであつても、その呼称が社会生活上未だ定着していないような場合には、民法七六七条一項の規定の趣旨(同条項によれば、婚姻によつて氏を改めた夫又は妻は協議上の離婚によつて婚姻前の氏に復するが、この規定の趣旨は、同条二項を合わせ考えると、社会における呼称秩序の維持という要請とともに個人の意思を家ないし氏意識よりも尊重するという要請を重視したものと解される)を考慮し、この場合における前記「やむを得ない事由」の解釈にあたつては、他の場合と比較し、個人の意思を重視するという意味で、よりゆるやかに解釈することが許され、したがつて、その氏の変更に合理的な必要性がたとえ乏しくても、離婚に際し戸籍法七七条の二の規定により行つた婚氏継続の届出が本人の不本意な意思によるものであり、かつ、その使用の期間及び範囲が比較的短小で社会的に未だ定着せず、復氏について社会的呼称秩序の弊害がほとんどないような特段の事情があるときは、「やむを得ない事由」があるものと解するのが相当である。

(三)  これを本件についてみるに、本件記録及び前記事実関係によると、(1) 抗告人は昭和五八年一月六日浜田時正と協議離婚した際、抗告人の本意は婚姻前の氏である「沖野」に復したかつたが、次の事情により婚姻中の氏である「濱田」を使用することとして戸籍法所定の届出をした、(2) 抗告人は右離婚の際、長女育美(昭和四九年八月三日生、当時小学生)から、姓が急に変わるのは恥ずかしい、嫌だといわれ、また、尾道市役所係員から、いつでも簡単に旧姓に変えられるように誤つて聞いたことにより、復氏が容易にできると誤信し、不本意ながら安易に「濱田」姓を継続使用した、(3) もつとも、抗告人は昭和五九年一二月一九日「沖野千恵」名義で広島銀行尾道東支店に総合口座を開設したほか、その後、住居の表札に「沖野千恵」名義の表札も掲げ、「沖野千恵」の氏名で郵便物を差出し、かつ、受領し、(4) 抗告人は離婚後、実家に帰り二児と暮し、実父の家業である飲食店「味園」の手伝をしながら、生計を維持している、(5) 抗告人の実家では抗告人が将来、「味園」の営業を受け継ぐことを予定しており、かつ、同店の一切の取引関係が「沖野」の名義で行われているので、抗告人も「沖野」姓を使用するのが経営上好都合である、(6) 抗告人が離婚してから本件申立てをするまでの期間が約三年七か月であり、その間、婚姻前の氏も使用しており、また、前夫浜田時正が昭和六〇年五月三日心不全で死亡して以来、濱田家とは一切関係がなくなり、かつ、離婚後の婚氏使用は未だ社会的に定着していない、ことが認められる。

右事実によると、抗告人が氏を変更するについて抗告人の婚氏の使用が不本意な意思によるものであり、復氏の必要があるだけでなく、婚氏の使用が定着せず復氏について社会的な呼称秩序の混乱ないし弊害がほとんどないから、その氏を婚姻前の氏「沖野」に変更するについて「やむを得ない事由」があるものというべきである。

(四)  よつて、原審判は失当であり、本件抗告は理由があるから、家事審判規則一九条二項により本件申立てを却下した原審判を取り消し、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 村上博巳 裁判官 滝口功 裁判官 弘重一明)

別紙

抗告の趣旨

原審判を取消し、さらに相当の裁判を求める。

抗告の理由

一 抗告人は、昭和四八年三月一日申立外濱田時正と婚姻届をなし、抗告人と濱田時正の間には、長女育美(昭和四九年八月三日生)、次女あゆみ(昭和五五年一月一三日生)が出生した。

申立人と濱田時正は昭和五八年一月六日協議離婚し、子の親権者は申立人と定めた。

離婚原因は、強度のアルコール依存症(入院歴もある)及び、それに起因する脳障害のためである。

二 申立人は、離婚時、濱田姓を使用する意思はなかつたが、子供の姓を変えたくないという意思を尊重して、やむなく、婚姻中の氏である濱田姓を使用した。しかし、申立人は、できる限り婚姻前の氏である「沖野」を使用することに努め、申立人の知人等に対しては、「沖野」を使用していた。郵便物に濱田(沖野)と書いたり、表札にも沖野姓も併せて使用していた。

申立人の前夫濱田時正が昭和六〇年五月三日病死(心不全)し、葬儀の際、濱田時正の兄弟から冷遇されたため、申立人は、いよいよ濱田とは一切縁を切る決意をし、長女も、これ以降、二度と濱田の家へ行きたくない、濱田の姓も使いたくないと、強く希望するに至つた。

三 申立人は、婚離後、肩書地に子らと居住しながら、申立人の実父の家業である食堂「味園」の手伝いをしながら生計を維持している。

申立人には、兄と妹がおり、父、兄、妹とも、申立人と子らの生活のため、将来家業を継ぐことに賛成しており、申立人もその計画である。

「味園」は、申立人の父で三代目になる老舗であり、現在でも、申立人が濱田姓を使用する場合、取引先、顧客に対し違和感を与え、経営上支障がある。

申立人が居住する家屋は、現在新幹線新尾道駅舎工事のため、本年一一月までに立退きをしなければならず、近い将来申立人と子らは父と同居生活する予定であるが、申立人と子らの氏が濱田姓であると、同居生活にさしさわりが生じるため、父も氏の変更を強く希望している。

四 申立人(長女も)は、前夫の死亡により、今後一切濱田とは関わりなく、自立の道を求めて再出発する決意であり、離婚後三年七ケ月しか経ておらず、しかもその間も沖野姓をも使用しているため、申立人の氏が濱田であることで社会的に定着したとはいえない。

また、今ここで沖野姓に氏を変更するにつき、社会的弊害を生ずることはありえず、むしろ、申立人が濱田姓と沖野姓を併せて使用している方が、社会的弊害が将来生ずると言うべく、この際、沖野姓に氏を変更した方が、申立人と子、及び親族、知人との人間関係もより円滑に築けるものである。

五 以上の事実は、社会生活上著しい不便、支障をきたし、氏変更のやむを得ない事由に当り、申立を却下した原審判は不当である。

六 よつて、抗告の趣旨どおりの裁判を求める。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例